*今朝の読売新聞に、天台宗の座主(一番エライ人)と真言宗の座主が昨年の12月25日に比叡山で対談したという記事が載っていた。
両宗の開祖、最澄と空海が晩年、対立したとされる事から、両宗の座主が長時間にわたり意見を交わしたのは1200年の歴史の中で初めての事らしい。
『草木国土悉皆成仏』(すべてのものには仏様になる素質が備わり、尊厳を有している。半田座主曰く)とか、『物心一如』(物と心は一つで、それぞれ命を持つ。松永座主曰く)とか、『亡己利他』(自分の事は忘れ、他人の為に尽くせ)とか、難しい仏教用語が語られた事が載っていた。
だがしかし、だいたい、『亡己利他』とか、そんな事は百も承知の上の事。そのような事を1200年かかって語っているようでは・・・。
今求められているのは、「難しい事をわかりやすく、難しくない事はさらに分かりやすく、そして現実的に」なのに、我々坊さんは、難しい事はそのままで、難しくない事も難しく語ってしまう悪い癖が・・・。
先日、フェイスブックで、私の尊敬するおるお坊さんが、「世界的な傾向として、特に仏教は宗派性を越えようという方向で動いている・・・中略・・・生活抜きの仏教では、楽になれませんからね」とコメントされていたが、全く同感だ。この座主同士の対談が、1200年に一回だけの機会で終わらぬ事を節に願うところだが・・・。
自分の事は忘れ、他人の為に尽くせの、『亡己利他』などは、我々坊さんに対する言葉だと受け取りたい。特に私・・・。
そう言えば、去年東京の宗務院(日蓮宗総本部)での研修会でも、この『亡己利他』を紙に書いて発言したお坊さんがいて、私が自分に事を棚に上げて、「この会議が、もうこりた~にならないように・・・」と発言し失笑をかった事を思い出した。
*今日は、若桜町の蓮教寺で『年頭祈願祭』をお勤めし、筋肉痛の腕で木剣を振り御祈祷を勤めた。筋肉痛とギックリ腰は、も~こりた・・・。