今月の言葉

花びらに変える

2005年12月01日コメントをどうぞ

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平成17年12月1日 「花びらに変える」

今年も師走をむかえました。12月8日は、ビートルズのメンバー、ジョンレノンが凶弾に倒れた日、そしてパールハーバー、第2次世界大戦の開戦した日。これらはよく知られていますが、もうひとつ12月8日は、お釈迦様が悟られた日でもあり、「成道会」と言い、仏教徒にとって大変意義深い日です。なぜこんな素晴らしい日に人の命を奪ったり、戦争を始めたのか、人間の愚かさを思わずにはおれません。

この日を迎えると、お寺ではお釈迦様が、悟られた時の様子を描いた絵を飾ります。その絵は、悟りを開き、たいへん穏やかな姿で座っておられるお釈迦さまに、沢山の毒矢が飛んできている絵が描かれています。さらによく見ると、なんと、その飛んできた矢はお釈迦さまに当たった瞬間に、花びらとなってひらひらと舞い落ちていく様子が描かれています。この絵は私たちに色々な事を教えてくれます。

人から受けた仕打ち。それをそのまま、矢のままで返すから争いとなります。そんな事を繰り返していては、何時までたっても争いが尽きる事はありません。飛んできた矢を花びらに変える。なかなか出来ることではありませんし、今の世の中どこから矢が飛んでくるのか分かりません。考えられないような所から、考えられないような矢が飛んできます。花びらに変える。大変な世の中ではありますが、そんな意識をちょっと持ってみたいものです。そうすれば、物事が少しづつでも、必ず良い方向に変わってゆくはずです。

あわただしい年の瀬を迎えますが、「慌しい」(あわただしい)とは、心が荒れる。と書きます。くれぐれも、心を荒らさないよう、ゆとりを持つよう心がけ、「なにごともなく、あたりまえ」な事のありがたさかみ締めて、今年一年の「あたりまえだと思った事」に感謝をこめて、飛んできた矢を、花びらに変えるよう心がけ、一年を締めくくりましょう。

ぼけます小唄

2005年11月01日コメントをどうぞ

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平成17年11月1日 「ぼけます小唄」

ある方から「ぼけます小唄」という詩を教えてもらい思わず笑ってしまいました。その詩とは。

一、何もしないでボンヤリとテレビばかり見ていると のんきなようでも年をとり いつか知らずにボケますよ
二、仲間がいないで一人だけ いつもすることない人は 夢も希望も逃げてゆき 年をとらずにボケますよ
三、お酒も旅行も嫌いです 歌も踊りも大嫌い お金とストレス貯める人 人の二倍もボケますよ

思い当たるふしがあります。

いっぽう「ぼけない小唄」は

一、風邪もひかずに転ばずに 笑いを忘れずよくしゃべる 頭と足腰使う人 元気ある人ボケません
二、スポーツ。カラオケ・囲碁・俳句 趣味のある人味もある 異性に関心持ちながら 色気ある人ボケません
三、年をとっても白髪でも 頭はげてもまだ若い 歌をうたってアンコール 生きがいある人ボケません

こちらはなるほどと思います。

何もしないで、人の中に交わらず。つまらん事にくよくよと愚痴ばかりの生活をしてストレスばかり貯めてるとボケますよ。色々なものに興味を持ち、笑いを忘れずに体を適度に動かし、趣味を持ち、気持ちを若くしていればボケませんよ。という事です。

わかってはいるんだけどなかなか出来ない。でも、「出来ない、出来ない」といって何もしないでいる人は、ほんとに出来ません。何とか一歩前にでて少しでも行動に移せる人は、どんどん良い縁が広がって行くものです。

今の世の中、若くてもボンヤリと物事に興味なく、ボケそうな人が多いのが気になります。

食欲の秋・芸術の秋です。しっかり食べて、しっかり楽しみ、「ぼけない小唄」実行しましょう。

一人家族

2005年10月01日コメントをどうぞ

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平成17年9月1日 「一人家族」

ある食堂での事です。つい立で仕切られたとなりの席に親子と思われる2人組が座って食事をしていました。その間、高校生ぐらいと思われる男の子がしゃべっており、いまどき珍しい会話のある親子だなぁと思っていたところ、男の子が手にしていたのは携帯電話でした。なんと食事中話をしていたのは目の前にいる母親ではなくて携帯電話の相手でした。食事代を母親が払って店を出て行きましたが、店を出るまで母親との会話はほとんどありませんでした。

まったく味気ない食事だった事と思います。なんともいえない気分になりました。核家族という事が言われて久しいですが、今や核家族がさらに進み「一人家族」の状況です。

テレビは「一家に一台」の時代は遠い昔の話になり、今や「一人に一台」になり、携帯電話の普及率も80%を超え、若者は道を歩きながらヘッドホンで音楽を聞き、周りの事はまるで目に入らず自分の世界に入っている人をよく見かけます。

世の中が「核家族」から、さらに「一人家族」になって、人と人との繋がりが薄れ、生の声での会話の聞こえにくい家庭や社会になってきています。でも、決して若者や子供が悪いわけではないと思います。今の世の中を造ってきたのは私達大人です。

ある小学校の校長先生が、終戦から60年、自分たちがしてきたような苦労は次の世代には絶対にさせまい。という思いのもとに子供たちに物を与えてきた。それが与えすぎて、今日の我慢のきかない、きれやすい子供たちにしてしまったかもしれない。と言われていました。

よく、人と人との間につながりがあって「人間」と言いますが、人と人とのつながりを取り戻すには、やはり「おはよー」「こんにちは」「ただいまー」「おかえりー」の大きな「声」です。まず大人が積極的に元気な「声」を出し、機械を通しての会話だけでなく生の声でのコミュニケーションとして、「声」の行きかう社会や家庭を取り戻したいものです。

このホームページを開いたあなた。きっと大きな声の出る人だと思います。

ヤバイ

2005年09月01日1件のコメント

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平成17年9月1日 「ヤバイ」

最近は日本語の乱れが取りざたされますが、いいか悪いか判断がつかなかったときに「ビミョー」という言葉を使う人や、素晴らしいやすごい、おいしいなどの意味で「ヤバイ」を使う人が10代・20代はもとより40代、50代でも増えている事が文化庁の日本語に関する世論調査でわかりました。

「ビミョー」などはすでに定着して、判断がつかない時だけじゃなく、答えたくない時にも使われて微妙なニュアンスを生んでいます。

以前は新しい事を「ナウイ」と言いましたが、最近は「ヤバイ」とも言うようです。どんな時に「ヤバイ」を使うのかというと、ケーキが美味しかったき「このケーキ、ヤバイおいしいね!」とか、映画で感動したとき「今日の映画ヤバイくらい面白かったね」とか、格好いい男の人がいた時「あの人ヤバくない」とか、結局「スゴイ」の意味で使うようで、強調語句としても使われるようです。

若者言葉に詳しい、椙山(スギ)女学園大の加藤教授は「若者言葉が広がる背景には、社会が寛容になり、年配者まで使う傾向が出ている事がある」と指摘し、その理由として、「携帯電話などの普及で、若者の言葉が社会的影響を及ぼす事を大人が認識するようになった為ではないか」と話しています。

文化庁は、定着するかどうかは現時点では判断出来ないと分析しているようですが、定着する事が良いか悪いかは何ともいえない「ビミョー」な事だと思います。

言葉が乱れるにつれて、世の中いろいろな事がみだれてきているように思われます。

一年を通じて、爽やかに空気が澄んで人間の頭が冴えるちょっと「ヤバイ」時それが、お彼岸の7日間です。昼と夜の長さがほぼ同じで片寄らない日を、釈迦の教えで、片寄らない物の考え方しようとする「中道主義」に重ね、爽やかに冴えた頭で物事をみきわめ、生活の乱れを修正しようとしたのが「お彼岸」です。この機会に言葉の乱れ、社会の乱れもちょっと考えてみたいものです。

学成寺のホームページちょっと「ヤバくない・・・!」

サルとバナナ

2005年08月01日コメントをどうぞ

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平成17年8月1日 「サルとバナナ」

今、東南アジアで、サルの数が増え人に迷惑をかけ困っているそうです。しかし、東南アジアではサルは神様の使いとして珍重されている為、捕まえて殺すことは出来ません。それで、この悪さをするサルを殺さずに捕まえるよう工夫したワナを仕掛けます。そのワナというのは、大きなヒョウタンを繰りぬき、いたずらをしているサルたちの目の前で、そのヒョウタンの中にバナナを入れてその場を離れます。それを見ていたサルはバナナを食べようと、ヒョウタンの中に手を入れてバナナを握ります。バナナから手を離すと簡単に手が抜けるのに、バナナを食べたいがあまり、バナナを握った手を離すことが出来ずあわててバタバタしているところを捕らえられて山奥に捨てられると言う事です。

なんとも哀れで面白い話ですが、笑えないような気もします。

私達人間も、自分自身の勝手な思い込みから物事を決め付けて意固地になり、必死にバナナを握りしめているような事って結構あると思います。「火の車、己が造り、己が乗りゆく」と言う言葉がありますが、まさにその通りだと思います。握りしめている手を、気持ちを、ちょっとほどく事で、視野が開け物事は好転していくはずです。

今月は、お盆の月です。お盆とは、インドの言葉『ウランボン』が『盂蘭盆』となり略して『お盆』となりました。『ウランボン』とは、自分の都合しか考えない勝手な行動ばかりしていると、やがて「逆さまに吊り下げられたような大変な苦しみを受ける事になりますよ」という戒めの言葉です。近年は気候の変動が身近に感じられますが、この事も、私達人間がしてきた勝手な行動が原因の一つと言え、まさに『ウランボン』といえると思います。

ちょっと、気持ちを楽に、握りしめている手をゆるめ、心をほどいてみる良い機会それも「お盆」だと思います。この、ホームページを開いたあなた、きっと、握ったバナナの手をすぐにほどく事の出来る人でしょう。

みょうが

2005年07月01日コメントをどうぞ

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平成17年7月1日

スーパーの店先に夏みょうがを見かける季節になりました。みょうがは独特の香りと辛みで和風料理のスパイスとして重宝されますが、昔からみょうがを食べると「物忘れが多くなる」そんな言葉を耳にします。

お釈迦様のお弟子にシュリハンドクという人がいました。このお弟子さんは、大変まじめで、お釈迦様の教えを一生懸命に聞くのですがすぐに忘れてしまいます。何度聞いても覚えられずしまいには、自分の名前さえも忘れてしまいます。困りはてたお釈迦様とその弟子たちは、せめて自分の名前はわかるようにと、シュリハンドクと書いた名札を首からぶら下げるようにしました。

ところが名札を付けた事さえ忘れてしまい、やっぱり自分の名前すら覚えられません。しかし、それでも、一生懸命お釈迦様について修行を重ねたそうです。

やがて、シュリハンドクが亡くなり、埋葬したところ、其の場所から一本の芽が出て花を咲かせました。その花の事を、シュリハンドクが名札を付けていたつまり名を荷っていたことから、「名を荷う」と書いて『茗荷』と呼ぶようになりました。シュリハンドクが、物忘れの多い人だった事から、「みょうが」を食べると物忘れが多くなる。と言うになりました。

みょうがの成分には難の問題もありません。物忘れが多くなるのは、茗荷のせいではありません。安心して風味を楽しみましょう。

人間時には、忘れる事も大切かもしれません。肝心なのはシュリハンドクのように、人になにを言われようと、自分のできる事を自分のペースで、ぼちぼちとやってみる事です。

みょうがの風味を楽しみ、爽やかに、これからむかえる夏の暑さを、のらりくらりと乗りきる力を養いましょう。このみょうがの話は、どうか物忘れにならないように御願いします。

ほどほど

2005年06月01日コメントをどうぞ

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平成17年6月1日 『ほどほど』

昨年の「高額納税者番付」が公表されました。所得税を10億円以上納めた「大長者」は昨年より4人増え、景気回復の気配をうかがわせたという事です。IT業界やブームに乗った健康・美容業界やパチンコ関連業者が相変わらずの強さを見せる中、常連組を追い抜き、断トツの「大長者」となったのは、「一サラリーマン」清原達郎さんでした。清原さんは巨大マネーを動かす金融界の「サラリーマン」ですが、納税額は36億9千万円で、給与所得としてのトップは初めてで「成果主義」で勝ち取った収入は100億円にものぼったという事です。年齢や経歴は関係なく能力があり、大きな成果を収めた社員には高い報酬が得られるという「成果主義」の現実は、励みにもなるようであり、また色々考えさせられることも多々あるようにも思えます。

いっぽう、先月第一生命保険が募集し発表した「サラリーマン川柳」の上位人気作品を見てみますと、『オレオレに、亭主と知りつつ 電話切る』・『振り込めと 言われたその額 もってない』・『ヨン様か おれは我が家で ヨソ様さ』・『残念!と 俺の給料 妻が切り』・『所得税 所得増えずに なぜ増える』・『ケンカして わかった妻の 記憶力』など、世のサラリーマンの現状はこちらのほうが、より現実味があり共感を呼びます。

いずれにせよ、私たちは厳しい現実の中一日一日を生き抜いていかなくてはなりません。高額納税者にはなって見たい気もありますが、やはり何事も「ほどほど」が良いかもしれません。

お茶を入れた時、薄くて味のないお茶の事を「無茶」。反対に、濃くなりすぎて苦くて飲むと苦しいお茶の事を「苦茶」といいます。「無茶苦茶」とは、ここから出た言葉です。お茶も「ほどほど」が一番美味しいものです。

新緑の季節「新茶」の便りの聞こえるこの頃、なにかにつけて「無茶苦茶」なことの多い世の中ですが、たまには「ほどほど」で美味しいお茶でも飲みながらゆっくりと、「ほどほど」においしい一日を送りたいものです。このホームページを開いたあなた、今日は「ほどほど」に良い日となるでしょう。

2005年05月01日コメントをどうぞ

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平成17年5月1日

輸入大国ニッポンで、もし仮に農産物の輸入がストップした場合を想定して、農水省がこんな献立を発表しました。夕食は御飯1杯、焼き芋1本、焼き魚ひと切れ・・・朝昼も芋中心で、味噌汁は2日に一杯、肉は9日に一食となるそうです。御年配の方には戦後の食料不足の時代を思い起こされることでしょう。輸入が完全に途絶えるという極端なケースの想定ですが、可能性がないわけではありません。

今、食べて育てる。「食育」という事が言われています。若い人の間では飽食ゆえに食が乱れ、御飯にマヨネーズやケッチャップをかける(マヨラー・ケチャラー)さらにはチョコレートをかける子がいるとの事、奇妙な怪しい食べ物、寄食怪食です。

親から家庭の味が伝わらなくなり、家庭の食卓も、父はカレー・母はスパゲティ・子供はラーメンと「バラバラ食」で、同じものばかり食べる「ばっかり食」、家の中がフアミリーレストランとなっています。今は食べる物は「作る物」ではなく「買ってくる物」になり、朝ごはんを食べない子も多く、朝ごはんを学校給食にしてほしいとの意見もあるそうです。「食」という字は人を良くすると書きます。こんな状態では人が良くなるわけがありません。

人を良くするにはバランスのとれた食事が一番で、さらに適度の空腹は人間のより高い能力を引き出すそうです。腹八分目とはよく言ったもので、自分が必要とするカロリーよりちょっと少なめに取るのが秘訣となり、カロリーを減らしても十分な栄養をとれば大丈夫との事です。

そして、ハングリー精神も大事です。イチロー選手が、野球は綺麗なグランドで練習したものより、ボコボコの悪いグランドで練習してきた者の方がどんなグランド環境でも対応出来うまくなると言っていました。私達の生活も、同じだと思います。

私達は1日3食として、50年生きると約5万回の食事をすることになります。食べることは生きる事、生きることは食べる事、食べる事は生活の中で一番大切な事です。

食生活のレベルを落とす。芋中心の食生活にならぬ事を祈りながらバランスの良い食生活「人を良くする食事」考えましょう。

DNA

2005年04月01日コメントをどうぞ

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平成17年4月1日

とある法事の後席でのことです。あるおじいさんが、「和尚さん、わしゃぁなぁ不思議な夢を見たですが、夢の中に今まで会った事もない人が出てきて名前を名乗ったですが、全然知らん人だけぇ誰だろうと気になっとったです。そしたら後で分かったですけどなぁ、親戚の先祖さんに、夢で出てきた人と同んなじ名前の人がおるって聞いてびっくりしたですが、なんぞ悪い事がおこりゃせんでしょうか、心配ですだがな。和尚さんはどう思われますかなぁ」と問いかけられました。

私達の体は、約60兆の細胞から成り立っています。その細胞の中にあるデオキシリリボ核酸、略してリボ核酸DNAつまり遺伝子の中に30億年という長い間に私達の生命が経験してきたすべての出来事が蓄積インプットされているわけです。そして、さらに自分という人間が生まれてから経験してきたすべての事柄が新しい情報となって加わります。

夢の中に出てきた人の名前に驚いたおじいさんに、答えました。「もともと私たちは遺伝子の中にそういう情報を持っているんですよ。普段は眠っている脳細胞がなんかの拍子で、呼び起こされて、夢の中に出てきたという事になったのだと思いますよ。そう思うと不思議でもなんでもないごく当たり前の事ですよ。だからなにも心配する事はありませんよ。」

おじいさんはキョトンとしていました。でも、そういう事だと思います。それを御先祖がどうのこうの、などというからおかしな事になるわけです。

私達の生きる道を決める力は、御先祖様からの情報と自分自身の生き方だと言えます。

お釈迦様は、すべての物には、原因があってそれに縁があり結果が生まれ、そして果報(報い)が生じる。この事の繰り返しですよ。と教えられます。起こった事の原因は変える事は出来ませんが、縁は自分しだいでいくらでも変える事が出来ます。縁が変われば当然結果も報いも変わってきます。

たとえば、一本の大根があったとします。大根が「原因」で、料理の仕方が「縁」です。料理の仕方が違えば、当然出来上がった姿「結果」も違い、味「報い」も違ってきます。

良い「縁」を遺伝子に入力インプットし、見た目もよくて、美味しい大根になるよう心がけて見たいものです。

マンダラ

2005年03月01日コメントをどうぞ

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平成17年3月1日

アメリカのフロリダ州にエバーグレイズという広大な湿地帯があります。40年ほど前に湿地帯の開発が進み人間の住む住宅地となりました。しかし自然が破壊され、多くの野生動物が絶滅し、さらには埋め立てた湿地帯が地下水の汲み上げによる陥没で、民家の崩壊が起こるようになりました。この現実から、「母なる自然に誤らなければいけない」ということで、今一兆円の費用を賭けて、エバーグレイズの広大な湿地帯を元に戻す自然再生が行われているそうです。しかし元通り自然が再生するには約30年かかると言われています。

地球上ではこの500年の間に実に784種の生き物が絶滅しました。その原因のほとんどは私達人間です。人間が自然破壊を繰り返し、空や大地にダイオキシンなどの有害物質をふりまき、その有害物質が食物連鎖によって最初は小さな生き物から、それを餌とする大きな生き物に凝縮されてゆき、やがて多くの奇形や生殖機能の低下をもたらし絶滅へと進んできました。この恐ろしい現実、これは人間の将来の姿かもしれません。

「マンダラ」という言葉は多くの人に知られ、宗派を問わず各家庭にもお祀りされています。マンダラとはインドの言葉で、「集まる」という意味を持ちます。何が集まるかというと、人にかぎらず、多くの色々な姿や形をした生き物がお互いの立場を尊重し、それぞれがその役割を果たしながら、持ちつ持たれつ仲良く共存共生して集まっている姿。この姿状態の事を「マンダラ」と言います。私達人間はたった一つの地球で、多くの生き物と共存共生していかなくてはなりません。まさに地球上は「マンダラ」の世界です。

今、私達人間は野生動物からの無言の問いかけに、どう答えていくかが求められています。

熊が出たからといって慌てて撃ち殺しているようでは、人間の未来もないと思います。熊やイノシシを山から出るようにしたのは他ならぬ人間です。

自然の脅威を嫌と言うほど感じさせられる昨今です。フロリダの人達の「母なる自然に誤らなければいけない」という言葉、考えさせられ身にしみます。

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