今月の言葉

れんげ草

2007年05月01日コメントをどうぞ

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平成19年5月1日  「れんげ草」

最近は、見る事が少なくなった「れんげ草」が咲く田んぼを見かけました。昔は、学成寺の周りも田んぼが多く、れんげ草の中を走り回って遊んだ事を思い出します。

そんな「れんげ草」を見ながら、池上本門寺酒井日慈貫首様の話を思い出しました。

貫首様が、子供の頃、小学校を卒業した日、お母様が成績表を前にして、「お前は頭が悪いくせに勉強嫌いでは、世間の皆様と肩を並べて生きていく事は容易な事じゃない。だけど、お前に一つだけいいところがある。それは、お前は面倒見がいいところだ、お前は『れんげ草』におなり、れんげ草は田畑のこやしになるし、家畜の餌になる。お前も、世間様のこやしとなって餌となって人様のお役にたつように努力すれば、お前のような人間でも、この世に生まれてきた甲斐を見つける事が出来ますよ」と言われたそうです。

なぜか、その母の言葉が、子供ごころに納得がいき、「よし、俺はれんげ草になろう」と心にきめられた酒井貫首様は、以来、90歳を迎えようとする今日まで、みごとに「れんげ草」の人生を歩んでおられます。

最近になっての事だそうですが、孫娘さんが買ってきた「花ことば」という本が机の上に置いてあるのを見つけられた酒井貫首様は、「れんげ草」の花ことば」は何だろうと興味深く開いてみられたそうです。すると、—実り多い幸せ—と書いてあり、田畑のこやしであり、家畜の餌である野の花が—実り多い幸せ—とは。と、仰天し、その時、おもわず40年前に亡くなられた、お母様の顔がポッと浮かび。なるほど、そうだったのかと、感慨深くお母様の事を思い出されたとの事でした。

私達も、人様のお役に立てる、『れんげ草』の人生歩みたいものです。

電気の神

2007年04月01日コメントをどうぞ

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平成19年4月1日  「電気の神」

俳優の『菅原文太』さんの「自然・ふるさと・生活再発見」をテーマにした講演を聞きました。

ふなれな鳥取弁の「ばんなりました~」という挨拶で公演が始まり、「トラック野郎」も、おじいちゃんになったなぁと思いながら耳を傾けました。

中国電力の「電気記念日」の講演会だったのですが、今の世の中は、真っ暗闇のない時代で、明るすぎると言われました。真っ暗闇があるから明るさの感じ方が違い、有難さも違う。自分が子供の頃は、電気を点けても、消し忘れると親からすぐに消せ~消せ~と怒られるほど、電気は貴重なエネルギーだった事を振り返られ、電気の有難さを語られました。

今の経済にも触れられ、戦後の日本は、お金だけの復興で心の復興がなされないまま、高度経済成長へと道を誤った。と、憂いを語られ、経済成長の方向性を誤った為、世の中を騒がす事件、子供に関わる事件は、ほとんどが、お金が絡んでいると言われ、確かにお金はあればあるほうが良いかもしれないが、世の中お金とか儲けとか欲の空気ばかりなので、子供たちに、欲のない空気を吸わせてやりたいと話されました。

鳥取には山があり、林業も盛んですよねぇと言われ、ある林業の町で、おじいさんが植えた木を、お父さんが切り出し、孫の学校を創っている事を語り、このように今と昔が上手に繋がった地域づくりになると良いですね。コンクリートの学校では情緒は育たないですよねと、思いを語られ、現代社会は、商業主義からの脱却が大切だと公演を締めくくられました。

ゆっくりとした口調で、じかんの流れもゆったりと感じ、すばらしい講演でした。

日本人は昔から、自然の恵みを「海の神」「山ノ神」と感謝を込めて崇めて来ました。いまや電気のない暮らしは考えられません。電気に感謝を込めて「電気の神」も崇めたいものです。

かたじけない

2007年03月01日コメントをどうぞ

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平成19年3月1日

第一生命保険が、恒例となった「サラリーマン川柳コンクール」の入選作品百編を発表しました。あいかわらず世相をちりばめたユニークな作品の数々です。

「ハンカチで ヨン様卒業 ぼくの妻」。「イナバウアー 一発芸で 腰痛め」。など、昨年話題になった斉藤投手や荒川静香さんにちなんだ作品や、「そのすきま 席ゆずられても 座れない」。と太りすぎを冗談にしてしまう作品。脳を鍛える人気ソフトを題材に「脳年齢 年金すでに もらえます」。妻の前では言えない言葉を、高校の未履修問題に重ね「新妻は 炊事と掃除 未履修で」。犬や冥王星に自分の身を置き換え「犬はいい 崖っぷちでも 助けられ」。「冥王星 なんだか他人と 思えない」など、笑うに笑えない、現実が見え隠れし、考えさせられる作品の数々です。

川柳や短歌などは、言葉の面白さや、味わい深さを考えるきっかけとなり、最近乱れている日本語の勉強にもなり、言葉遊びとしても面白いものだと思います。

そんな中、テレビである時代劇を見ていて、今ではほとんど使われる事のない、「かたじけのうございます・・・」というセリフが耳に止まりました。「かたじけない」などという言葉は、それこそ今は死語になった言葉だと思いますが、みょうに気になりました。

「かたじけない」とは、元来は容貌の醜い意を表す言葉だったそうですが、身にしみてありがたいとか、もったいない、恐れ多いとか、恥ずかしく面目ないなどを意味して、感謝や御礼や反省や、相手を思いやる気持ちも込められ、味わい深く、美しくもあり、とても謙虚な言葉だと思います。こういう言葉を思い出すと世の中少しは、良くなるのではないかと思います。

3月は、お彼岸です。お彼岸は、昼と夜の長さが同じで、片寄らない日を真ん中にした一週間に、片寄らない、バランスの取れた生き方を考え実践する時です。自然や御先祖様に対しても「かたじけない」気持ちを表す時だと思います。

このホームページを開いて頂いて、「かたじけないことです」。

100年後には

2007年02月01日コメントをどうぞ

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平成19年2月1日

今、地球上では人類史上かってなかった様々な問題をかかえています。温暖化の影響もあり、絶滅に向かっている生き物が増えており、私達にとって身近な存在のカエルも絶滅に向かっているそうです。このまま温暖化が進めば、約100年後には、海面が6~7メートル上昇するとの事です。

人間が排出する二酸化炭素が、温暖化の要因のひとつと言われるわけですが、人間が、便利で豊かな生活を手に入れる為に行って来た事が、大変な状況を生んでいるわけです。そんな状況にもかかわらず、地球上では国同士の争いが絶えることがありません。各国の代表が、宇宙船に乗り、宇宙の中に存在するたった一つのかけがえのない地球を眺めながら、話し合いを持ったらどうでしょう。そんな事でもしない限り、人間の行いは変わらないと思います。

100年後には、今生きている私達は、この世にはいないわけですが、だから何もしないというのが、一番怖い事かもしれません。

今更、カマドで火をおこし、ご飯を炊くなどという事は出来るはずもありませんが、少しは、今よりも不便な生活を心がけてみる事も、必要だと思います。

今月は節分の月です。「節分」といえば、立春の前日を示すようになりましたが、元はといえば、立春・立夏・立秋・立冬の、前の日はすべて節分です。昔は「立春正月」といい一年の始まりを立春に求めた事から、「節分」と言えば、立春の前日を示すようになりました。

節分になると、豆には「邪気を払う霊力」があると考えられていた事から、豆を蒔く事で、邪気を払い、福を呼び込む事を願い「豆撒き」をしたり、玄関から入る邪気を防ぐ為に、鰯(いわし)の頭を焼いて、ヒイラギの葉に刺し、家の入り口に置き、鰯の頭の悪臭で、邪気を防ぐというような風習が行われてきました。

本来私達人間は、自然の摂理の中で、思うにならない事の多い現実を受け入れながら、いろんな思いや願いを込めて、自然との共生を考えながら生きて来たのだと思います。営まれてきた、昔ながらの風習から、自然との付き合い方、見直していく事も「節分」の月の持つ意味ではないでしょうか。

繭の穴

2007年01月01日コメントをどうぞ

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平成19年1月1日

今年もまた、生き生きと、生きる喜びしっかりと見つめて、明るく前向きに過ごしていきたいと思います。

ある男が、繭から出ようとしている蝶を前にして、その蝶が小さな繭の穴から出ようと、もがき苦しんでいる様子をじっと見ていました。何度も動きが止まり苦しみもがいている蝶を見て、その男は、これ以上は無理だと感じ、蝶を助けようと繭の穴を少し切ってやりました。そのお陰で蝶は繭から何の苦労もなく出る事が出来ました。しかし、蝶の体は生気が感じられず弱々しく、やがて蝶は、弱々しい羽を引きずり、あたりを這い回るだけで、一度も空を飛ぶ事無く一生を終えてしまいました。

小さな繭の穴から出ようともがく蝶に与えられた苦しみは、蝶が繭から外に出た時にすぐに空に舞い上がれるように、強い蝶を育てる為の自然の摂理であった事を男は知らなかったのです。

この蝶の話は、今の私たち人間の姿にだぶるような気がしてなりません。人間も、過保護に育つと、世間の荒波を乗り越えられない弱い人間になってしまう事でしょう。もうなっているのかも知れません。今の豊かな世の中が、有難い事には違いありませんが、本当の豊かさのあり方、そして自然の摂理、しっかりと考えてみたいものです。

平成18年は、丁(ひのと)・亥(い)歳です。丁は万物がさかんになる事。亥は万物が次の時代の種となる事。というような意味を持ちます。世の中が、人間の営みが、経済が盛んになり、次の時代を養う元気な種(元)となる事が出来るような、豊かで有意義な歳にしたいものです。

亥歳ですが、猪突猛進とならぬよう、時には足元と周りを見ながら、自然の摂理にも思いをめぐらし、スピードを変え、上手に立ち回りましょう。

腰を落ち着けて

2006年12月01日コメントをどうぞ

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平成18年12月1日

近頃は、毎朝新聞やテレビを見るのが恐ろしい気がします。次から次と起こる事件が多すぎて、どれがどの事件なのかさえも分らなくなってしまいます。怖いのは、そんな事件が当たり前になり、「またかぁ」と、少々の事では驚かなくなる事です。

毎日のように、悪い事をした人が、「まったく不徳のいたすところで御座います、心よりお詫び申し上げます」。「深く反省申し上げる次第です。誠に申し訳ありませんでした」などと、頭を下げていますが、本当に反省しているのかすら、疑いたくなる状況です。大人がなすすべなく、立場や体裁を取りつくろうとする姿を子供たちにみすかされてしまうようで、怖い気もします。

あるテレビ番組で、石原慎太郎さんが、「日本には、恥じという文化があったが、今はなくなってしまったし、こんなに緊張感なく発達した文化は日本だけだ。日本は平和が発酵し過ぎて、腐敗の過程に入った。と言っていましたが、その通りかもしれません。

どうも、親になってはいけない人が親になり、そんな親に育てられると当然、なってはならない子供になってしまいます。

とにかく、心が不安定になり、腹の立つ事が多いこのごろです。

怒りがこみ上げて来ると、「心」が体の上の方にあがり、最後には頭のてっぺんに来ます。この状態の事を、「頭にきた」といいます。こりゃいかんという事で、「心」を沈めてようやく腹のあたりまで下りて来た。それでもまだ「腹が立つ」。やはり「心」は、腰のあたりに「腰を落ち着けて」いたいものです。

慌しい年の瀬をむかえますが、慌てず「腰を落ち着けて」1年を締めくくりたいものです。

スポーツの秋

2006年11月01日コメントをどうぞ

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平成18年11月1日

プロゴルファーの杉原輝雄さんは、今年69歳をむかえました。若いころはマムシの杉原と恐れられ、今までに現役3位の勝数になる60勝をあげ、半世紀に渡ってゴルフの試合に出場して来られました。

その間、乗用カートを使わずコースを歩くプロの選手は、どれだけ歩いた事になるでしょう。年間平均100ラウンドしたとすると、1ラウンドの平均距離を約7キロとして年間700キロ。それを杉原さんは50年続けたのですから、700キロ×50年=3万5千キロ。地球をほぼ一周した距離になります。すごい健脚です。

杉原さんは、「歩く事を、あまり深く考えた事はないが、前屈みになるような歩き方はしたくない」と言われます。さらに「姿勢としてみすぼらしいし、内臓にも良くないからね。気が付けば、すぐに胸を張るようにしています。」と語られます。家から電車の駅まで15分くらい歩く時も、早く歩いたりペースを緩めたり、色々と工夫を凝らしているそうです。そんな杉原さんも、98年に、前立腺がんを患いました。しかし、体力が落ちるからと手術を拒否し、治療を受けながら現役にこだわっています。
夜8時には寝床に着き、毎朝5時半には起き体操をして、朝ごはんをしっかり食べ、トレーニングで体をいじめ抜いて現役にこだわりながら、年齢より少ない数のスコアで回るエイジシュートと云う記録を狙っています。

あるテレビ番組で、「そんな杉原さんが現役にこだわる理由はなんですか」と。尋ねられると、「自分は諦めが悪いし、未練たらしいからです。でも、そういうところが、僕のゴルフ人生を支えてくれたんです」と、さりげなく答えられていました。

秋は、食欲の秋であると共に、スポーツの秋でもあります。しっかり食べて、しっかり体を動かし、杉原さんのように、規則正しい生活のもと、心も体も元気に、「諦め悪く、未練たらしく」人生の現役を続けたいものです。

売ってない商品

2006年10月01日コメントをどうぞ

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平成18年10月1日

「通販生活」という通信販売の雑誌が送られてきました。その本の中にパロディで「売ってない商品カタログ」というページがあり、なかなか面白い商品が載っていました。

沢山の尊い犠牲の元に成り立つ今の平和。戦争の放棄をうたった憲法第9条だけは、簡単には譲れない。という切実な思いをカタチにした。「平和弁当」。これは、食べていくうちに、容器の底に印刷された数字が見えてきて、それが第9条の「9」だったら大当たり。

今なお、地球上には沢山の地雷が埋め込まれており年間2万人近い人間が被害にあっており、その23%が子供だそうです。という現実をカタチにして、豆ごはんなんだけど、豆の中にいくつかワサビを固めた豆が混じっていて、それを食べたら大変。慎重にワサビの豆を除去しながら食べていく「地雷除去弁当」
ちなみに、豆はグリンピースで平和の豆です。

今の出生率から単純計算すると、西暦3400年には、日本の人口はたった1人になるとの事。これは計算上の事なので、実際にはそんな事にはならないと思いますが、50年後には1億人を切るのは間違いないそうです。そんな日本の国中に燃え盛る小子化の火を防ごうという事で、消火器をもじって、「少子化機」。

人と人とを結び付けているのは言葉なのに、最近は迂闊に話しかけると、何をされるかわからない物騒な世の中。そんな中、口を出してお節介で世直ししようという事で、頭からすっぽりかぶると、目の所は小さく、口の部分が大きく開いている「口出し帽子」。

まだあります。「春のうららの隅田川~」と歌われた。東京の隅田川。その隅田川の水をペットボトルに入れ、「こんなきたねぇ水に誰がした」と反省する。「隅田川の水」など。

いずれも、今の世相を繁栄して本当にあったら面白い。と思える商品でした。しかし、笑っていられない厳しい現実が、見え隠れするのも事実です。

実りの秋をむかえ、「実るほど頭をたれる稲穂かな」の言葉を思い出し、謙虚な気持ちで、世の中の乱れ修正したいものです。

バランス

2006年09月01日コメントをどうぞ

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平成18年9月1日

ある方と「お盆が過ぎましたけど、じきに彼岸が来ますね」。と話をしていると「お盆って1年に1回なのに、お彼岸は何で2回もあるんですか、初盆はあるのに、初彼岸ってないですよね」と尋ねられました。

素朴な疑問って結構あるなぁと感じながら、「お盆は、釈迦の弟子、目連尊者が、7月15日に、餓鬼道に落ちて苦しんでいる母を救ったのが由来なので1年に1回」

「お彼岸は、1年に昼と夜の長さが同じで片寄らない日が2回あるのを、釈迦の教えで、どちらにも片寄らない物の考え方をしましょう。と云う[中道主義]に重ねたから2回なんです」。「お彼岸には、御先祖がかえって来られると云う設定がないので、初彼岸はないのですよ」と答えました。

釈迦の教えは「中道」が大切ですよ。と教えます。「中道」とは、読んで字の如く「真ん中の道」です。右の道かそれとも左の道かを選ぶ時、釈迦は「どちらにも片寄ってはだめですよ。真ん中の道を行くんですよ」とメッセージを送っています。

しかし、実際には、真ん中の道を行く事は容易ではありません。見方を変えればプラスの道を選ぶか、マイナスの道かと言う事になる事かもしれません。そんな時誰ひとりマイナスの道を選ぶ人はいないと思います。けれども私たちは、やむをえずマイナスの道になってしまう事が多いものです。

そんな時、釈迦は私たちに語りかけます。「決してマイナスはマイナスのままで終わりませんよ」と。マイナスと思われる事から多くを学ぶ時があると思います。逆にプラスだと思っていた事がマイナスになる事もあります。そういえば学校で、マイナスとマイナスを足すとプラスになる。と習った事を思い出します。

以前、ブラジルの留学生さんに、お彼岸の話をしていた時、なかなか適当な言葉がみあたらす、困っていたら、その学生さんが、一言。「バランスですね」と。その通りだと思いました。どうも私はバランスの悪い話をしていたようでした。

気候のバランスも良くなる9月。生活のバランスの事も考えてみたいものです。

お盆のこと

2006年08月01日コメントをどうぞ

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平成18年8月1日

ある若い方から、「お盆って、毎日お墓参りに行きますけど、御先祖様はお家に帰っておられるんですから、お墓は留守じゃないんですか?」と尋ねられました。

確かにそういう状況設定のもとにお盆は成り立っていますから、お墓は留守になるわけです。先人は、留守のお墓は私達が火を燈して、掃除をしてちゃんと守りますから、安心してお家に帰っていて下さい。つまり留守番の気持ちをこめてお墓参りをしてきました。

お盆とは、インドの古い言葉「ウランボン」を音写したもので、「ウランボン」が盂蘭盆となり、略して「お盆」となりました。「ウランボン」とは、自分勝手な振る舞いは、やがて自分に帰ってきて大変な苦しみを受けますよという戒めの言葉です。

釈尊の弟子、目連尊者が、自分勝手な自己中心的な行いにより、餓鬼道に落ちて大変な苦しみを受けている母を救うために、釈尊の教えに従い、出家者の修行(雨安居)の終る7月15日に多くの修行僧に、教えを聞き、沢山の施しをする事によって母を救ったというのがお盆の由来ですこのことが、仏教と共に日本に伝わり、日本古来の風習とが混ざり合って、今日のお盆行事になりました。(地方により、農作業などの為、旧の8月15日)

ただ、先祖供養として、お墓に参るだけがお盆ではありません。命を繋いで頂いたご先祖に感謝し、どうすれば自分勝手な考えを抑えて、正しく生きられるか。つまり、ウランボンにならない生き方を考えるとき、それが本当のお盆です。

先人は、気持ちを込めて具体的に行動する為に、御先祖様を、迎えたり、送ったり、いろいろな舞台設定をこしらえて、お盆行事としてきました。

お盆の13日には、迎え火を焚き、家に飾った精霊棚にご先祖さまをお迎えします。迎える時は、早く帰ってきてほしいので、馬に見たてたキュウリに乗って帰っていただき、15日に送るときは、送り火を焚き、牛に見たてたナスにのってゆっくり帰っていただきます。お墓は、大切な永遠の住まいです。お盆や彼岸だけでなく、常日頃から、きれいにしておきたいものです。