今月の言葉

お盆

2009年08月01日コメントをどうぞ

kotoba_2108

平成21年8月 「お盆」

子供の姿が親に似てくるのはあたり前の事です。よく「変な所ばかり似てくる」などと言いますが、良い所もちゃんと似ているのに変な所ばかり目につくので、そんな言い方になってしまうようです。親の状態が子供に伝わる事を遺伝といいます。この遺伝の情報を伝えるのが遺伝子でDNA(デオキシリボ核酸)という物質です。

このDNAは、重さ2千億分の1グラム、幅は50万分の1ミリという想像もつかない細長い糸のようなものです。そしてこのDNAが細胞の中に折り畳まれていて、この上に生物の設計図の情報が書き込まれ、私達の体はこの設計図に基づいたDNAを持つ60兆個の細胞から出来ています。

私達はこのような人間の知恵では想像も及ばないような、不思議で奇跡的な体を御先祖様から受け継いで今を生きていると云う事になります。

この御先祖様から受け継いだDNAの情報に、私達が生まれてから経験した情報が新たに入力され、次の世代へと受け継がれていくわけです。そう思うと、より良い情報を伝達して子々孫々が賑やかに栄えていけるように考え行動するのも 今を生きる私達の役目だと思います。

盂蘭盆とは、インドの古い言葉「ウランボン」を音写し漢字をあてはめたもので、略して「お盆」となりました。「ウランボン」とは、自分勝手な振る舞いは、廻り廻ってやがて自分に返り、大変な苦しみを受ける事になりますよ。という戒めの言葉です。温暖化の影響を受けている私達人間は、まさに「ウランボン」の状況にあると言えます。

命を繋いで頂いた御先祖や大切な方々に感謝し、今までの事を顧みて、今の現実をしっかりと受け止め、これからの事も考えて、自分勝手な行動を戒め、「ウランボン」にならないような「生き方」を考えましょう。

おっくう

2009年07月01日コメントをどうぞ

kotoba_2107

平成21年7月1日  「おっくう」

初夏をむかえますが、梅雨のさなか蒸し暑い日が続きます。こんな時期は体もだるく何をするにも「おっくう」な気持ちになるものです。

なにげなく使う「おっくう」という言葉ですが、この言葉、実は仏教用語です。

「おっくう」とは数の単位「億」に、「劫」という古代インドの時間の単位が繋がった言葉です。

「劫」とはどのくらいの時間かといいますと、「1劫」の長さは、羽衣をまとった天女が100年に1度舞い降りてきて、一里四方はあろうかという大きな岩山の頂上を羽衣で撫でている状況を想像してみて下さい。そして、その撫でた摩擦で岩山が擦り切れ全部無くなり消滅してしまう時間を「1劫」といいます。

その「1劫」に「億」が付くわけですから、これはもう無限で気が遠くなるような長い時間の事を「億劫」(おくこう)と言います。

元の言葉は「おくこう」でしたが、それが「おっこう」となり、さらに変化して「おっくう」となり、余りにも長い時間の事なので、気が遠くなりやりきれないので、「面倒くさい」というような意味で使われるようになりました。

確かに「おっくう」になる事の多い毎日ですが、平成21年も早いもので半分が過ぎました。この調子で後の半分も過ぎていくかと思うと、「おっくう」になっている暇はありません。

「おっくう」な気持ちになっていると、心も体もネガティブ、マイナス思考になってしまいます。暑さに負けず、「おっくう」な気持ちにも負けず、体も心も元気にポジティブ、プラス思考に毎日を過ごしましょう。

ココロの学校

2009年06月01日コメントをどうぞ

kotoba_2106

平成21年6月1日  「ココロの学校」

谷村新司さんのトーク&ライブ『ココロの学校』を見に行きました。

心地よい音楽にふれながら皆でココロを豊にしていこうという趣旨で、音楽と人間の体と宇宙は全部繋がっているという話が印象に残りました。

ドレミファソラシドはイタリア語で、その中心になる「ソ」の音はSOL(ソーラ)太陽の事。「ラ」は宇宙。「ド」は土(つち)。「レ」は火。「ミ」は水。「ファ」は空。「シ」は死。1オクターブ上の「ド」は頭の上13センチで揺れている天使のワッカ。なので、みんな繋がっているとの事でした。

太陽と宇宙のあるところを太陽はソ宇宙はラなので「ソラ」、ゴルフボールが人のいる危ない方向に飛んで行った時に叫ぶ言葉が、空を意味する「ファ~」。「シ」は形が消え死を乗り越えると一つ音階が上がって「ド」土に戻る。

さらに、火を意味する「レ」と宇宙を意味する「ラ」がないのが沖縄の音階なので火と宇宙を求めているのが沖縄音楽。

空を意味する「ファ」と死を意味する「シ」のない音階は無常観を現し、それを奏でるとドレミソラドとなり「昴」のイントロです。などは特に面白い話でした。

「幾つになっても発展途上。自分と違った生き方をしてきた人の話を聞くのは良い勉強です。歌を歌うと元気になり若返ります。何かあったら鼻歌を歌ってください体に良いですから。その時々の出会いを大切にしましょう」と、私達にメッセージを伝え『ココロの学校』が閉校しました。

私達に元気をくれる音楽ってほんとに良いものだと思いました。

そんなココロを豊にしてくれる音楽にふれる学成寺の『花まつりライブ』は6月14日(日)です。どうぞお気軽においで下さい。

骨壷の話

2009年05月01日1件のコメント

平成21年5月1日  「骨壷の話」

水上勉さんの書かれた『骨壷の話し』を読みました。「人は焼かれて骨になる、骨壷こそ終の棲家。なぜに人はオリジナルな骨壷に入って楽しまないのだろうか」という水上さんは生前、「最後に納まる所を自分で作っておけば、安心して毎日を元気で生きられる」と自分の骨壷を自分で作り、知人にも盛んに進めておられたとの事でした。

なるほど。と思いながら、以前行ったある陶芸教室の事を思い出しました。その陶芸教室は「最後に納まる所ぐらい自分の手で責任を持って作りましょう」といううたい文句で、5回行くと自分の骨壷が作れるというものでした。

残念ながら私は1回きりだったので、1回目で作った湯飲みとも花瓶とも言えないような中途半端な作品が一つ残っているだけですが、その作品が窯からあがり手元に送られてきた時は、とても嬉しく、その作品はビールジョッキと化し仲間と乾杯した事を思い出します。

この作品が骨壷だったらと思いながら眺めて見ましたが、ちょっと小さすぎました・・・。

『骨壷の話し』の本を読み終えると、一番厳しい時の事をしっかり年頭に置く事によって、そこに行くまではどう在るべきか、どう生きるべきかを考えましょうという水上さんの前向きなメッセージが伝わって来る思いがしました。

水上さんに習って、五月晴れの元さわやかな気持ちで、毎日を「どうあるべきか」を考えてみたいものです。

ユリの花

2009年04月01日コメントをどうぞ

kotoba_2104

平成21年4月1日  「ユリの花」

綺麗な花を咲かせるユリの花を頂き玄関に飾っていました。

すると来られた方々が「なんちゅ~綺麗な花ですだ~」と口々に言われ、そこまでは良かったのですが、続く言葉は「これって本物ですか~」と・・・。

「本物ですよ」と答えると、今度は、ほとんどの方が「ほ~、そ~かな~」と言いながらユリの花に顔を近づけて、確かめるかのように匂いをかいでおられました。

確かに近頃の造花は本物より綺麗ではないかと思うほどの出来栄えの物が多くあります。しかし、本物の花が造花かと疑われる様子を見ていると、綺麗過ぎるのも良し悪しだと思いため息が出てきました。

「威厳・純潔・無垢」が花言葉のユリの花が造花かと疑われたのでは気の毒だなぁと思いながら、しばらくユリの花を眺めていると、大きな花弁が「あなたは本物の人間ですか、偽者ではありませんか~」と語りかけているような気がしてドキッとしました。

どうやら気の毒なのは、ユリの花ではなく、綺麗な花を「純潔・無垢」な気持ちで素直に楽しめない人間の方なのかもしれません。

物事を疑ってかかる事の多い昨今ですが、疑ってばかりいないで素直な気持ちで本物を見る目を養いたいものです。

わたし

2009年03月01日コメントをどうぞ

kotoba_2103

平成21年3月1日  「わたし」

ひょんな事から、谷川俊太郎さんが文を書いた絵本『わたし』を読み、思わず見入ってしまいました。「わたし・・・ おとこのこから みると おんなのこ。おにいちゃんからみると いもうと」。「わたし・・・ おかあさんから みると むすめのみちこ。おとうさんから みてもむすめのみちこ」。「わたし・・・ さっちゃんから みると おともだち。せんせいから みると せいと」。「わたし・・・ となりのおばさんから みると やまぐちさんちの したのおこさん。ごろう(犬 )から みると にんげん」。「わたし・・・ しらないひとから みると だれ?。 ほこうしゃてんごく では おおぜいのひとり」。・・・

なるほど「わたし」の目線で周りを見ていると「わたし」は一人なのに、見る人によって、「わたし」は変わり、呼び方がいっぱいあると言う事です。

子供向けの絵本ですが、目線を変えるたびに新しい「わたし」に気付くようで、とても面白く勉強になりました。

「わたし・・・ きんじょのひとから みると ちょっとかわったおぼうさん・・・」

雪景色

2009年02月01日コメントをどうぞ

kotoba_2102

平成21年2月1日  「雪景色」

去年の暮れ、「今年はカメムシが少ないですけ~、雪は少ないでしょ~や~」という話を幾度となく聞ききました。ところが、あにはからんや、元旦早々雪となり、何度雪かきをしたことでしょう。

昔に比べ雪の量は少なくなってはいますが、年々馬齢を重ねる身には辛いものがあります。

そんな中、県外から来られた方と話をしていると、「道中、汽車から見た雪景色がとっても綺麗で、癒されましたわ~」と嬉しそうに笑っておられたので、「雪は景色として見ているだけなら綺麗で済むんですけど、生活するとなると大変なんですよ」と言ってみましたが、実感がないらしく相変わらず嬉しそうに笑っておられました。

雪かきをしながら、子供の頃は降り積もると嬉しかったのに今や苦痛となってしまった雪景色を眺めていると、見ているだけなら綺麗なはずの雪景色が色あせて見えてきました。

近頃は雪遊びする子供もあまり見かけませんし、♪犬は喜び庭駆け回る♪と歌われた犬も家の中で丸くなっているようです。

雪の中での生活は何かと大変ではありますが、家の中で丸くなっていても何も始まらないので、ここは一つ子供の頃を思い出して、気候も経済も厳しい昨今ではありますが、“冬は必ず春となる”事を思い、雪景色を楽しむくらいの余裕をもって元気に体を動かし、毎日を過ごしたいものです。

365歩のマーチ

2009年01月01日コメントをどうぞ

kotoba_2101

平成21年1月1日  「365歩のマーチ」

ラジオで昔懐かしい水前寺清子さんの『365歩のマーチ』を聴きました。

♪しあわせは歩いてこない だから歩いていくんだね 一日一歩 三日で三歩  三歩進んで 二歩さがる♪ ♪汗かき べそかき歩こうよ あなたのつけた足跡にゃ きれいな花が咲くでしょう♪

単純明快スカット素晴しい詩です。

しあわせは歩いてこない。だから自分から一歩一歩歩いていく、しかも汗かきべそかきながら歩いていき、三歩進んで二歩下がる。この三歩進んでも二歩下がるのが、癒され勇気付けられ、なんともいいと思いました。

景気が後退し、三歩進んでも五歩も六歩も下がるような世の中ですが、しっかり一歩一歩歩いて行くと、進んだり戻ったりしながらも、それなりに何とかなるでしょう。と励まされます。

さらに

♪しあわせの 隣にいても わからない日もあるんだね 一歩違いでにがしても 歩みを止めずに 夢みよう ♪ 腕を振って足を上げて 休まないであるけ♪

しあわせは、普段の生活の何気ない営みの中に結構あるものですが、確かに気付かない事が多いかもしれません。辛い事があったとしても、とにかく愚痴を言わないで、元気に体を動かして頑張っていると必ず良い事がある事でしょう。

平成21年は、己(つちのと)丑(うし)歳です。己(つちのと)は今まで屈していたものが盛んに起こる事。丑(うし)は、すべての物が伸びる途上にある事。という意味を持ちます。伸びる途上ですが、元気に盛んに事起こせる平成21年となるよう一歩一歩、時々2・3歩下がることがあっても、前進の為の後退だと言い聞かせ、歩んでいきましょう。

裏も見せ表もみせて

2008年12月01日1件のコメント

kotoba_2012

平成20年12月1日  「裏も見せ表もみせて」

今年鳥取市は平年より15日早く初雪を観測しました。今年は随分早いなぁと思っていたら、なんと去年と同じ日だったとの事でした。そうだったかなぁと思いながら、去年の手帳を見てみると「初雪を観測したらしいが、気づかなかった」と書いてあったので、気付かないくらいの初雪だったようです。

昔は、初雪が早いとその冬は雪が少ないとか、虫が高い所に巣を作ったり、柚子が多く採れると雪が多いなどと云う話を耳にしましたが、近年は温暖化などで気候の様子が変わり、今迄の事が当てはまらなくなってきています。

農家の方から「今年はカメムシが少ないですけ~、雪が少ないかもしれませんな~」という声をよく聞きましたが、今年はいったいどんな冬になるのでしょう。

冬の心配をしながら、ぼちぼち散り始めた紅葉を見ていると『裏もみせ表もみせて散るもみじ』という良寛さんの詩が思い浮かびました。味わい深い詩だなぁと思いながら、裏を隠し、表面ばかりを取り繕うような私達の行いが、人間のみならず自然界のリズムまでも崩してしまったのかもしれないと思えてきました。

表面を取り繕う事ばかり考えないで、もう少し素直になって、表裏一体と云う事も考えてみたいものです。

今年1年の「裏も表も」振り返りながら、平成20年を締めくくりたいものです。

そ~だよ~

2008年11月01日コメントをどうぞ

kotoba_2011

平成20年11月1日  「そ~だよ~」

「静粛にお願いします」という議長さんの発言が何度あった事でしょう。発言者の意見に耳を貸さず、やじの飛び交う国会中継のテレビを見ながら、人の話はもう少しちゃんと聞くものだと思い落胆をおぼえました。

私の師匠のペンネームが僧侶の僧に多く聞くと書いて『僧多聞』(そうたもん)で『そ~だもん』と読みます。

これは、世の中には人の話を聞かない人が多いようだが、先ずは人の話をちゃんと多く聞こうじゃないか。話を聞いたなら、たとえ自分の意見と違い受け入れ難い意見であっても取り敢えずは、素直に「そ~だもん」と意見を受け入れ、それから対応を考えても遅くはないだろう。という思いが込められてのペンネームです。

私が、その『僧多聞』(そ~だもん)さんの弟子という事に、私がいつも不安定で多く揺れている事を重ねて、僧侶の僧に多く揺れると書いて『僧多揺』(そうたよう)で『そ~だよ~』というペンネームを使っています。

ちょっと大袈裟かもしれませんが、この『そうだもん』に『そ~だよ~』は、結構世直しのキーワードかもしれないと思います。

そんな事を思いながら、「素直ないい名前だな~」と言っていると家人から「ペンネームだけは素直なんですけれどね~」と言われたので、ここぞとばかり「そ~だもん」、「そ~だよ~」と、とりあえず素直に変事だけはしておいた・・・。