今月の言葉

DNA

2008年03月01日コメントをどうぞ

kotoba_2003

平成20年3月1日  「DNA」

最近、お会いする方から、「お経を読まれる姿や声が、だんだん先代さんに似てこられましたなぁ」と言われる事が多くなりました。聞かれた時には「なるべく似ないようにしてるんですけど~」と答えています。

私達の体はDNA(デボキシリボ拡散)とよばれる、体の細胞の中心にある遺伝子により、成り立っています。

このDNAの重さは2千億分の1グラム、幅は50万分の1ミリで、とても小さく、細長い糸のようなものです。

そしてこのDNAが、細胞にある46個の染色体の中に折り畳まれており、その長さをつなぎ合わせると約1メートル80センチにもなるそうです。

このDNA遺伝子の上に、A・T・C・Gという「塩基の物質」の組み合わせによる30億もの生物の設計図の情報が書き込まれています。

私達の体は、このDNAの設計図に基づいた約60兆の細胞により、つくられ構成され、親から子に遺伝の情報が伝えられていくわけです。ですから好もうが好ままいが、子が親に似てきて、「先代さんに、似てこれらましたなぁ」と言われるのは当然の事になるわけです。

さらには、受け継いだDNAの情報に、自分の行いが入力(インプット)されて、次の代に受け継がれて行く。これが現実です。

自分の命は今だけの命ではなく、DNAにより過去から、未来へと永遠に繋がっていくという事も忘れないように、良い所は似ても、そうでない所は似ないように心がけ、命を繋いで下さった方々(御先祖様)に感謝し、毎日を過ごしたいものです。そんな事を考えるのも、「お彼岸」の大切な意味だと思います。

あとのまつりに・・・

2008年02月01日コメントをどうぞ

kotoba_2002

平成20年2月1日  「あとのまつりに・・・」

今年の冬は原油価格の高騰が石油製品の値上げを呼び、物価は上がるが給料は上がらず、相次ぐ値上げで家計を預かるお母さん方には厳しい冬となっています。

そんな中、揮発油税(ガソリン)税の暫定税率の見直しが検討されていますが、此の税が無くなれば、道路整備にも影響が出て、鳥取県も「山陰道」の建設が滞る恐れも懸念されており、ガソリン価格が下がるのは喜ばしい事ですが、地方に住む私達にとっては痛しかゆしなのが現状です。

政治の事を「まつりごと」とも言いますが、「まつり」とは一般に行われるイベントの事ではなく、本来は神仏や祖先をまつる事で、感謝と祈り、さらには慰霊の意味も込められている言葉です。しかし、イベントは言うに及ばず、商店の大売出しにまで、本来の意味と違う「まつり」という言葉が使われているのが現状です。

昔の人が、政治の事を「まつりごと」と言ったのは、神仏の意に叶う政治をしなければならないという気持ちがあったからだろうと思います。

政治は、神仏の意に叶い、国民の意にも叶うものでもあってほしいものですし、私達の日々の暮らしも神仏の意に叶うようでありたいと思いますが、今の混迷する政界を見ていると、政治も私達の暮らしも「まつりごと」が「あとのまつり」にならぬよう心がけたいものです。

子歳(ネズミ歳)

2008年01月01日コメントをどうぞ

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平成20年1月1日  「子歳(ネズミ歳)」

最近は、お正月の様子も様変わりしてきました。おせち料理を作る家も減り、門松の数も少なくなりました。メールでの、年始の挨拶が増え、年賀状の数も減っているそうです。

子供達の遊びも、昔は、凧上げ、カルタ取り、羽根つき、すごろくに福笑いなどでしたが、今や凧上げや羽つきをする場所も無くなり、子供達が外で遊ぶ姿を見る事が少なくなりました。結局、いつもと変わらぬ、家でのゲーム遊びが正月遊びとなっているようで、「子供は風の子」などという言葉も聞かなくなりました。

カルタ取りは、「犬も歩けば棒にあたる」、「論より証拠」、など、知らず知らずのうちに、日常生活の中のことわざや格言を知る良い機会だったような気もします。せめてゲームの中でこういった昔ながらの遊びを復活させてほしいものです。

それに今の世の中、「毎日がお正月」のような生活をしているようにも思え、「♪も~いくつ寝るとお正月~♪」と、お正月を指折り数えた昔を懐かしく思います。

今年は、12支の一番先頭の「子」歳、「ねずみ歳」です。ネズミの名前の由来は、ネズミのほとんどは夜行性で、人間が寝ている間に食料を食べたりする事から「寝盗み」が転じて「ネズミ」になったそうです。

「ネズミ」は沢山の子供を産む動物です。ハツカネズミなどは、一度の出産で6~8匹の子供を産みます。妊娠期間も短く20日(はつか)くらいで、これがハツカネズミの語源だそうです。しかも、「ネズミ」は2~3ヶ月で成熟し、子供が産めるようになります。ですからどんどん数が増える為、「ネズミ算」、「ネズミ講」などの言葉に使われています。せっせと子供を生むネズミですから、干支で「ネズミ」を「子」と書くのでしょうか・・・。いずれにしても、少子化が危惧される昨今ですが、「ネズミ」にあやかり、にぎやかな家庭や、世の中を取り戻したいものです。

お正月を迎えると、「また一つ歳を取りました」と言われる方がありますが、昔は、新しい歳を迎えた時に、わが人生の何歳目が始まったと云う事で、元旦に歳を数えました。わが人生の何歳目、何日目と数え一日一日を大切に生きましょう。

スイッチの数が・・・

2007年12月01日コメントをどうぞ

kotoba_1912

平成19年12月1日  「スイッチの数が・・・」

鳥取は、「ちくわ」と「カレーのルー」の消費量が全国一位との事です。「ちくわ」は豊かな海の幸のお陰ですが、「カレーのルー」の消費量が多いのは、共働きが多い為、比較的短時間に調理出来る「カレーライス」が好まれるからだそうです。いかにも、時間に追われ、あくせくしてゆとりのない今の世相を繁栄しているようです。

しかし昔は、御飯を炊いてもお風呂を沸かしても、薪を割り火を起こす事から始めなければならず大変な時間と動力を費やしていたわけです。それが今は、スイッチ一つで御飯は炊けるしお風呂にも入れます。ということは時間に余裕が出来てゆとりを持って暮せるはずなのに、逆に見も心もゆとりがなく時間が足りません。

結局、便利に家事をこなす為には設備や器具にお金が掛かり、そのお金を捻出する為にあくせく働き時間がいくらあっても足りない。というのが現状です。

ひとたび楽を覚えた生活の中では、スイッチの数は増えるばかりで留まる事を知りません。「便利も過ぎれば不便の元」と言いますが、便利になればなるほど、逆にゆとりがなくなる矛盾の毎日。と思いながらも今日もスイッチに手が伸びる毎日です。

慌しい年の瀬をむかえますが、便利な生活に感謝をしながら、ほどよく、あくせくしながら、ゆとりを持つことを心がけ、今年を締めくくりたいものです。

不思議な御縁

2007年11月01日コメントをどうぞ

kotoba_1911

平成19年11月1日  「不思議な御縁」

毎年11月をむかえると思い出す事があります。

数年前の事になりますが、ある二人の御兄弟が北海道からお寺を訪ねてこられました。話を聞くと、自分達の御先祖さんは、200年ほど前に鳥取の賀露港から船に乗り、開拓団として北海道に渡ったという事が分り、御先祖を尋ねてはるばる鳥取までやって来られたとの事でした。

お話を聞き、早速に学成寺の過去帳を調べてみると、なんと、おっしゃる名前の御先祖さんが書いてあるのが見つかりました。

境内墓地に、ここは北海道に行かれた家のお墓だと、伝え聞いているところがある事を話し、お墓に行ったところ、おそらくここに間違いないという事で、お墓を掘り起こす事になりました。

午後になり、業者の方の手によって、お墓を掘り始めたところ、土台の石の下から50センチほどの小ぶりの墓石が出てきました。おそらく昭和20年の鳥取大地震で石塔が倒れ、そのまま土に埋もれていたのでしょう。正面には戒名、側面には御命日が記されている墓石を洗い、御命日を見てみると、その日は11月30日だったのですが、墓石に記された御命日は、なんと11月30日でした。たまたま尋ねて来られたその日が、御命日のお墓でした。お二人は涙を流して喜ばれ、私も思わず手を合わせ、しばし言葉が出ませんでした。

どんなに離れていようと、年月が過ぎていようと、時間も空間も越えて繋がる縁(えにし)を感じずにはおれませんでした。石塔は境内の無縁墓地にまつり、お二人は一握りの土を大切に胸に抱いて御先祖様と一緒に北海道へ帰って行かれました。

世の中、目に見えている物が全てではない事を感じる、忘れられない出来事となりました。いろんな縁(えにし)により生かされている事を感じながら、毎日を前向きに元気に送りたいものです。

インスタント人間

2007年10月01日603件のコメント

kotoba_1910

平成19年10月1日  「インスタント人間」

世の中まさにインスタント時代の様相があります。

この事は、今に始まった事ではなく、2・30年前から、カレー、ラーメン、コーヒーなどのインスタント食品に始まり、今や様々な物がインスタント化しています。

辞書によるとインスタントとは、即座、即席という意味です。インスタント食品を多く食べているせいではないでしょうが、最近は人間までが即席になり、その場しのぎの「インスタント人間」が増えてきたような気もします。

国をつかさどる政治家の先生方の中にも、昨日まで政治とは関係のない所にいた人が、即席でいきなり政治家になってしまう事もあるようで、ちょっとばかり理屈がこねられるからといって、それで政治が分ったような顔をされたのでは、私達国民はたまったもんではありません。

政治家に限らず、芸能界もしかりです。あるテレビの番組で、最近若者に人気の若手芸人が、田舎町でおじいちゃんおばあちゃん相手に、芸を披露していましたが、人を小ばかにしたような出しものはまったく受けず、かえって反感を買い、場はしらけていました。いつ何処で誰に対しても、その芸で多くの人を楽しませてくれるのが本当の芸人だと思いますが、どうもやることなすこと即席なので、まったく深みがなく後に何も残りません。

昔は、かたくなまでに自分の道一筋に打ち込む味わいのある活き活きと生きる「プロの人間」がちゃんといて、口先だけの人間は恥かしくて顔も上げられない。そんな時代もあったはずです。

口先だけで帳尻を合わせる、「インスタント人間」にならぬよう、深みや味わいを持って齢(よわい)を重ね、活き活きと生きる「プロの人間」になりたいものです。

3分間待つのだぞ

2007年09月01日コメントをどうぞ

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平成19年9月1日  「3分間待つのだぞ」

「3分間待つのだぞ」。40代以上の人には懐かしい大塚食品「ボンカレー」のCMです。日本経済新聞で、『「3分間待つ」今は昔?』という面白い記事を見ました。

「ボンカレー」は3分間待つだけで手間なしで簡単に食べられたので、40年続くヒット商品になり、日清食品の「カップヌードル」もお湯をカップに注いで3分間で、手軽に食べられ、今なお人気商品となっています。

3分間を取り上げると、料理番組の「キューピ3分クッキング」。ボクシングの1ラウンドも3分間。ウルトラマンが地球上で活躍できる時間も3分間。砂時計も3分間が多いそうです。このテレホン法話も約3分間です。

3分間と云うのは、長過ぎず短過ぎず、心理的にもちょうどいい時間で、私達の生活に一定の時間基準として浸透しており、身近な存在なのだそうです。

といころが最近は、時代と共に変化も出ており、大塚食品は電子レンジで2分暖めて食べられる「ボンカレー」を発売しています。ちなみに1分を縮めるのになんと35年かかったそうです。従来3分だった即席麺の調理時間も1分から5分までと多彩になっています。

さらに、「3分間のドラマ」と呼ばれた歌謡曲も形式にとらわれないアーティストが増え1曲の時間が5分に近づく曲も増えていて、NHKの「ラジオ体操」も3分余りだったのが、最近の「みんなの体操」では、のんびりしたテンポで5分弱に長くなっているそうです。

こうした背景について、利便性を追求して時間短縮に力を注ぐ動きや、味や品質の向上を進め時間を延長する動きもあり、「日本社会の成熟化を反映している」というような見方があるとの事でした。

『「3分待つ」今は昔?』。この機会に、じっくり時間をかけて、人間の成熟化も考えてみたいものです。

お盆の事

2007年08月01日コメントをどうぞ

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平成19年8月1日  「お盆の事」

お盆を前に、「お盆がきましたら、毎日お墓参りに行くですけど、よ~考えてみたら御先祖様はお家に帰っとんさるですけぇ、お墓は留守じゃないですかな?」と尋ねられました。

確かにそういう状況設定のもとにお盆は成り立っていますから、お墓は留守になります。

昔の人は、留守のお墓は私達が掃除をして火を燈して、ちゃんと守りますから、安心してお家に帰っていて下さい。と、留守番の気持ちを込め、さらにお墓にはお留守番の御先祖様もおられるので、その方の為にお供え物を持って毎日お参りに行きました。お盆のお墓参りには留守番の思いがこめられていたわけです。

外出して家をあけたとき、英語では「アブセント」といいます。まったく誰もいない、不在という意味です。同じ事を日本語では「留守にする」という言い方をします。「留守」と云う字は、「留まって守る」と書きます。と云うことは、自分達は外出しても「留まって守ってくれるものがいる」というわけです。目には見えないけれども、「家」を守ってくれる「人」がいるという事を昔の人は感じ取っていたのです。

神さま、仏さま、御先祖さま、目に見えない「さま」の事を「お陰さま」といいます。

私達は自分ひとりで生きているのではなく、いろんな方に守られているんだと言う事を考えるのも、お盆の大切な意味ではないでしょうか。

1300歳記念

2007年07月01日コメントをどうぞ

kotoba_1907

平成19年7月1日  「1300歳記念」

お墓参りに来られた御夫婦が、「今日は、1300歳記念で集まりがあるんです」と言われました。どういうことだろうと訊ねてみると、その方は9人兄弟で、その9人兄弟が御夫婦共々全員御健在。9人の御夫婦なので、総勢18人。その18人の年齢を全部足すと今年で1300歳になられるとの事でした。今までも、1000歳、1200歳などと、そのつど回を重ねて来られているとの事でした。

これはすごい事だと驚きました。兄弟9人御夫婦が元気で、しかも仲良くないとありえない事ですし、とても幸せな事だと思います。「一番上は88歳ですので、今回が最後になるかもしれません」と言われていましたが、一回でも長く続いてほしいのもだと思いました。

話を重ねるうちに、「歳を重ねた者が元気なのは、それはそれで有難い事なんですが、今の子供達の事が気がかりです」と言われ、「私達の若い頃、学校の先生は、生徒や児童を指導するものだと思っていましたが、今は、指導するとは言わず、支援すると言うらしいですよ」と、今の子供たちの事、学校のあり方を憂いておられました。教え導くのではなく、後方から様子を伺いながら支援するという事のようで、なにか逃げ道をこしらえているような、なんとも微妙な言い回しにも聞こえますが、今の教育現場の現状を踏まえれば、やむをえない事かもしれません。

変に気を使い、人間関係がギクシャクする事の多い昨今ですが、この御兄弟のように、仲の良い事が広がり、家族が仲良く、近所が仲良く、そして世の中みんなが仲良く繋がると、もっと潤いのある住みよい世の中になると思います。素直な気持ちで、人と人との仲の良い繋がり、今なりの支援の仕方も、考えてみたいものです。

赤ちゃんポスト

2007年06月01日1件のコメント

kotoba_1906

平成19年6月1日  「赤ちゃんポスト」

中年の御婦人方のちょっと気になる井戸端会議の会話を聞きました。

「赤ちゃんポストってどうおもう~」。「赤ちゃんポストよりも、夫ポストを作ってもらいたいわよね」・・・。

団塊の世代がいよいよ家庭生活中心の生活へと帰ってくる。そうすると、慣れない?夫の世話を四六時中しなければならなくなる。そこで、「夫ポストで誰か引き取って面倒を見てくれないだろうか」という事に・・・。少し身勝手かなとは思えますが、確かに御婦人がたとっては、結構切実な問題かもしれません。

置き去りにされた夫の場合は、文句も言えるし、笑い話ですむ事もあると思いますが、しかし、赤ちゃんは深刻な問題です。赤ちゃんは訳も分らず、いやとも言えず、それでも赤ちゃんの命が助かれば良いかもしれませんが、ポストに入れられた赤ちゃんが将来、入れた張本人よりも、もっと苦しく哀しい人生を送らねばならない可能性もある事を思うと、複雑な思いがしてやりきれません。

これも、自分の都合ばかりを優先させる事の多い今の世の中の歪の一つのような気がします。

このままでは、自分にとって都合の悪いものはみなポストへとなり、「赤ちゃんポスト」に続き、「夫ポスト」「妻ポスト」などいろんなポストが出来てしまうような気がします。とりあえずは、自分の都合を優先して、ポストのお世話にならないように気をつけたいものです。