今月の言葉

ゴーヤ

2008年08月01日コメントをどうぞ

kotoba_2008

平成20年8月1日  「ゴーヤ」

連日の猛暑日のお陰もあるのか、台所の窓辺に日よけを兼ねて植えた『ゴーヤ』がに大きく育ち、毎日のように食卓を賑わしています。

料理の仕方によっては、さほど気にならない場合もありますが、『ゴーヤ』は見ただけで「苦い」という条件反射のせいもあり、いくら健康に良いとはいえ毎日となるとチョット辛いものがあります。

「植物繊維とビタミンCが豊富で、夏の暑さに負けませんからしっかり食べてください」と言われるので、夏ばて防止にと口に運んではいますが、夏バテ以前に『ゴーヤ』の苦味に負けそうです。

元々『ゴーヤ』は熱帯地方のインド原産の植物なので、沖縄はともかく、本来鳥取あたりで大きく育つのは不自然な事のようです。こんなところにも温暖化の影響があるのかと思うと、大きく育った『ゴーヤ』を見て手放しで喜んでいられないような気もします。

『ゴーヤ』は葉が成長するときにまわりの熱を吸収し温度を下げるので、エネルギーの使用を削減出来て温暖化防止にも役立つとの事ですが、大きく育つ事自体が温暖化の影響でもある事を考えると、なんだか良いのか悪いのか、複雑な思いにかられます。

お盆の語源の「ウランボン」はインドの言葉で、「自分勝手な行いはすべてめぐり廻って自分の元に返ってきて、自分を苦しめる事になる」という戒めの意味があります。私達人間が自分たちの都合ばかり優先させてきた事が、地球環境の変化に加担している事は間違いない事なので、まさに私達人間は「ウランボン」の状態になりつつあると言えます。

そう思うと自分勝手な行動を慎み、地球環境を汚さない暮らしを考えるのも、お盆の大切な意味である事が分ります。エコライフを考え、有意義なお盆の月を過ごしたいものです。

家庭菜園

2008年05月01日コメントをどうぞ

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平成20年6月1日  「家庭菜園」

家庭菜園をしておられる方から、キャベツやチンゲン菜など沢山の野菜を頂きました。「農薬をつかっとりませんけ~、中から虫が出てくるかもしれませんよ~」とニコニコしながら帰っていかれる姿を見送り、早速に頂いた野菜を見ると、確かに虫食いの穴だらけで、キャベツの葉をめくると、言われるとおり虫が顔を出してきました。

台所にあった、スーパーから買ってきたキャベツと比べてみましたが、スーパーのキャベツは、虫食いの穴もなく見かけはとても綺麗なものでした。

虫食いの野菜のほうが自然な野菜なんだけどなぁ~と、綺麗なキャベツと虫食いだらけのキャベツを眺めながら、私達人間は、虫も食べない恐ろしい野菜を好んで食べている事実を考えさせられました。

確かに、虫食いの穴だらけの野菜は、見た目も良くなく、気持ちも余り良いものではありませんが、体の健康や命の事を考えると、なんともいえない気持ちがします。

しかし、見た目の悪い物には消費者はなかなか手を出しませんから、売るほうも当然綺麗な物を売るようになるわけです。消費者である私達ももう少し賢くならなければいけないという事です。

考えてみると、私達は、見た目で物事を判断し、本当の事を見過ごしてしまっている事って結構あるように思います。

私達人間も、表面だけを取りつくろう事を戒めて、見た目で誤魔化されず、正しく物を見る目を養いたいものです。

面白い毎日

2008年05月01日コメントをどうぞ

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平成20年5月1日  「面白い毎日」

日本海新聞の『読者の声』の欄に『「当たり前」は「当たり前」?』というタイトルで、ある中学校1年生が投稿している記事を見ました。

「僕は去年、足を怪我した。その傷は深く、少しの間歩けなかった。それまで僕は、歩くのが当たり前だと思っていた。でも、その当たり前の事が出来なくなると、すいぶん不便だ。

いつの間にか、当たり前が当たり前じゃなくなると、人は当たり前を取り戻そうとする。すまり、人にとって当たり前というものは実は大切なものなのだ。

でも僕たちにとっての当たり前が、当たり前じゃない人がいる。目や耳が不自由だったり・・・。

僕は当たり前ということを大切にしたいけれど、少し違う角度で見ていく事も必要だと感じている。当たり前って本当に難しい」。

すばらしい文章に感動しました。

本当の有難さを知っているのは、当たり前を失った人かも知れませんが、失ってからでは遅いという事です。

以前、学成寺の山門掲示板に『当たり前を 当たり前と思わない毎日は面白い』と書いた事がありますが、気候も良くなる五月晴れの5月、気持ちも晴れ晴れと『面白い毎日』を積み重ねたいものです。

枯れ木に花を咲かせましょう

2008年04月01日コメントをどうぞ

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平成20年4月1日  「枯れ木に花を咲かせましょう」

桜の季節をむかえ、これから花の季節をむかえます。しかし、相変わらずテレビや新聞から、目を覆い耳を塞ぎたくなるようなニュースが毎日のように飛びこんできます。

そんなニュースを見ながら、今の世の中どう贔屓目(ひいきめ)にみても、人間も地球環境も「万木まさに枯れなんとす」の兆候に思えてなりません。もちろん枯らして良いはずがありません。

そこで、桜の季節にあやかって、みんなが「花さか爺さん」になり「枯れ木に花を咲かせましょう」運動を展開してみたらどうでしょう。

近頃は、種をまいたら、すぐに芽が出て花が咲く事を求めすぎているように思えてなりません。桜の花も、冬の寒さにじっと耐えるからこそ春に綺麗な花を咲かせるわけです。

まいてすぐに芽が出る事もあれば、年月を経てから芽を出し、実を結び綺麗な花が咲く事もあると思います。

お寺の本堂などで手を合わせるとき、私達が一方的に手を合わせお釈迦様を拝んでいるイメージがありますが、よく見ると、お釈迦様も私達を合掌して拝んで下さっているのがわかります。

人は誰でも、人を思いやる優しい心の「花の種」を心の中に持っているものです。お釈迦様は、心の中の「花の種」を気づかせてくださり、その心が増幅して生き生きと様々な花が咲きますようにと、私達に手を合わせ拝んで下さっているのです。そう思うと、とても心強く感じられると共に、恥ずかしい生き方は出来ないとも思います。

お釈迦様の誕生月でもある、花咲く4月。「枯れ木に花を咲かせましょう」!

DNA

2008年03月01日コメントをどうぞ

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平成20年3月1日  「DNA」

最近、お会いする方から、「お経を読まれる姿や声が、だんだん先代さんに似てこられましたなぁ」と言われる事が多くなりました。聞かれた時には「なるべく似ないようにしてるんですけど~」と答えています。

私達の体はDNA(デボキシリボ拡散)とよばれる、体の細胞の中心にある遺伝子により、成り立っています。

このDNAの重さは2千億分の1グラム、幅は50万分の1ミリで、とても小さく、細長い糸のようなものです。

そしてこのDNAが、細胞にある46個の染色体の中に折り畳まれており、その長さをつなぎ合わせると約1メートル80センチにもなるそうです。

このDNA遺伝子の上に、A・T・C・Gという「塩基の物質」の組み合わせによる30億もの生物の設計図の情報が書き込まれています。

私達の体は、このDNAの設計図に基づいた約60兆の細胞により、つくられ構成され、親から子に遺伝の情報が伝えられていくわけです。ですから好もうが好ままいが、子が親に似てきて、「先代さんに、似てこれらましたなぁ」と言われるのは当然の事になるわけです。

さらには、受け継いだDNAの情報に、自分の行いが入力(インプット)されて、次の代に受け継がれて行く。これが現実です。

自分の命は今だけの命ではなく、DNAにより過去から、未来へと永遠に繋がっていくという事も忘れないように、良い所は似ても、そうでない所は似ないように心がけ、命を繋いで下さった方々(御先祖様)に感謝し、毎日を過ごしたいものです。そんな事を考えるのも、「お彼岸」の大切な意味だと思います。

あとのまつりに・・・

2008年02月01日コメントをどうぞ

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平成20年2月1日  「あとのまつりに・・・」

今年の冬は原油価格の高騰が石油製品の値上げを呼び、物価は上がるが給料は上がらず、相次ぐ値上げで家計を預かるお母さん方には厳しい冬となっています。

そんな中、揮発油税(ガソリン)税の暫定税率の見直しが検討されていますが、此の税が無くなれば、道路整備にも影響が出て、鳥取県も「山陰道」の建設が滞る恐れも懸念されており、ガソリン価格が下がるのは喜ばしい事ですが、地方に住む私達にとっては痛しかゆしなのが現状です。

政治の事を「まつりごと」とも言いますが、「まつり」とは一般に行われるイベントの事ではなく、本来は神仏や祖先をまつる事で、感謝と祈り、さらには慰霊の意味も込められている言葉です。しかし、イベントは言うに及ばず、商店の大売出しにまで、本来の意味と違う「まつり」という言葉が使われているのが現状です。

昔の人が、政治の事を「まつりごと」と言ったのは、神仏の意に叶う政治をしなければならないという気持ちがあったからだろうと思います。

政治は、神仏の意に叶い、国民の意にも叶うものでもあってほしいものですし、私達の日々の暮らしも神仏の意に叶うようでありたいと思いますが、今の混迷する政界を見ていると、政治も私達の暮らしも「まつりごと」が「あとのまつり」にならぬよう心がけたいものです。

子歳(ネズミ歳)

2008年01月01日コメントをどうぞ

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平成20年1月1日  「子歳(ネズミ歳)」

最近は、お正月の様子も様変わりしてきました。おせち料理を作る家も減り、門松の数も少なくなりました。メールでの、年始の挨拶が増え、年賀状の数も減っているそうです。

子供達の遊びも、昔は、凧上げ、カルタ取り、羽根つき、すごろくに福笑いなどでしたが、今や凧上げや羽つきをする場所も無くなり、子供達が外で遊ぶ姿を見る事が少なくなりました。結局、いつもと変わらぬ、家でのゲーム遊びが正月遊びとなっているようで、「子供は風の子」などという言葉も聞かなくなりました。

カルタ取りは、「犬も歩けば棒にあたる」、「論より証拠」、など、知らず知らずのうちに、日常生活の中のことわざや格言を知る良い機会だったような気もします。せめてゲームの中でこういった昔ながらの遊びを復活させてほしいものです。

それに今の世の中、「毎日がお正月」のような生活をしているようにも思え、「♪も~いくつ寝るとお正月~♪」と、お正月を指折り数えた昔を懐かしく思います。

今年は、12支の一番先頭の「子」歳、「ねずみ歳」です。ネズミの名前の由来は、ネズミのほとんどは夜行性で、人間が寝ている間に食料を食べたりする事から「寝盗み」が転じて「ネズミ」になったそうです。

「ネズミ」は沢山の子供を産む動物です。ハツカネズミなどは、一度の出産で6~8匹の子供を産みます。妊娠期間も短く20日(はつか)くらいで、これがハツカネズミの語源だそうです。しかも、「ネズミ」は2~3ヶ月で成熟し、子供が産めるようになります。ですからどんどん数が増える為、「ネズミ算」、「ネズミ講」などの言葉に使われています。せっせと子供を生むネズミですから、干支で「ネズミ」を「子」と書くのでしょうか・・・。いずれにしても、少子化が危惧される昨今ですが、「ネズミ」にあやかり、にぎやかな家庭や、世の中を取り戻したいものです。

お正月を迎えると、「また一つ歳を取りました」と言われる方がありますが、昔は、新しい歳を迎えた時に、わが人生の何歳目が始まったと云う事で、元旦に歳を数えました。わが人生の何歳目、何日目と数え一日一日を大切に生きましょう。

スイッチの数が・・・

2007年12月01日コメントをどうぞ

kotoba_1912

平成19年12月1日  「スイッチの数が・・・」

鳥取は、「ちくわ」と「カレーのルー」の消費量が全国一位との事です。「ちくわ」は豊かな海の幸のお陰ですが、「カレーのルー」の消費量が多いのは、共働きが多い為、比較的短時間に調理出来る「カレーライス」が好まれるからだそうです。いかにも、時間に追われ、あくせくしてゆとりのない今の世相を繁栄しているようです。

しかし昔は、御飯を炊いてもお風呂を沸かしても、薪を割り火を起こす事から始めなければならず大変な時間と動力を費やしていたわけです。それが今は、スイッチ一つで御飯は炊けるしお風呂にも入れます。ということは時間に余裕が出来てゆとりを持って暮せるはずなのに、逆に見も心もゆとりがなく時間が足りません。

結局、便利に家事をこなす為には設備や器具にお金が掛かり、そのお金を捻出する為にあくせく働き時間がいくらあっても足りない。というのが現状です。

ひとたび楽を覚えた生活の中では、スイッチの数は増えるばかりで留まる事を知りません。「便利も過ぎれば不便の元」と言いますが、便利になればなるほど、逆にゆとりがなくなる矛盾の毎日。と思いながらも今日もスイッチに手が伸びる毎日です。

慌しい年の瀬をむかえますが、便利な生活に感謝をしながら、ほどよく、あくせくしながら、ゆとりを持つことを心がけ、今年を締めくくりたいものです。

不思議な御縁

2007年11月01日コメントをどうぞ

kotoba_1911

平成19年11月1日  「不思議な御縁」

毎年11月をむかえると思い出す事があります。

数年前の事になりますが、ある二人の御兄弟が北海道からお寺を訪ねてこられました。話を聞くと、自分達の御先祖さんは、200年ほど前に鳥取の賀露港から船に乗り、開拓団として北海道に渡ったという事が分り、御先祖を尋ねてはるばる鳥取までやって来られたとの事でした。

お話を聞き、早速に学成寺の過去帳を調べてみると、なんと、おっしゃる名前の御先祖さんが書いてあるのが見つかりました。

境内墓地に、ここは北海道に行かれた家のお墓だと、伝え聞いているところがある事を話し、お墓に行ったところ、おそらくここに間違いないという事で、お墓を掘り起こす事になりました。

午後になり、業者の方の手によって、お墓を掘り始めたところ、土台の石の下から50センチほどの小ぶりの墓石が出てきました。おそらく昭和20年の鳥取大地震で石塔が倒れ、そのまま土に埋もれていたのでしょう。正面には戒名、側面には御命日が記されている墓石を洗い、御命日を見てみると、その日は11月30日だったのですが、墓石に記された御命日は、なんと11月30日でした。たまたま尋ねて来られたその日が、御命日のお墓でした。お二人は涙を流して喜ばれ、私も思わず手を合わせ、しばし言葉が出ませんでした。

どんなに離れていようと、年月が過ぎていようと、時間も空間も越えて繋がる縁(えにし)を感じずにはおれませんでした。石塔は境内の無縁墓地にまつり、お二人は一握りの土を大切に胸に抱いて御先祖様と一緒に北海道へ帰って行かれました。

世の中、目に見えている物が全てではない事を感じる、忘れられない出来事となりました。いろんな縁(えにし)により生かされている事を感じながら、毎日を前向きに元気に送りたいものです。

インスタント人間

2007年10月01日603件のコメント

kotoba_1910

平成19年10月1日  「インスタント人間」

世の中まさにインスタント時代の様相があります。

この事は、今に始まった事ではなく、2・30年前から、カレー、ラーメン、コーヒーなどのインスタント食品に始まり、今や様々な物がインスタント化しています。

辞書によるとインスタントとは、即座、即席という意味です。インスタント食品を多く食べているせいではないでしょうが、最近は人間までが即席になり、その場しのぎの「インスタント人間」が増えてきたような気もします。

国をつかさどる政治家の先生方の中にも、昨日まで政治とは関係のない所にいた人が、即席でいきなり政治家になってしまう事もあるようで、ちょっとばかり理屈がこねられるからといって、それで政治が分ったような顔をされたのでは、私達国民はたまったもんではありません。

政治家に限らず、芸能界もしかりです。あるテレビの番組で、最近若者に人気の若手芸人が、田舎町でおじいちゃんおばあちゃん相手に、芸を披露していましたが、人を小ばかにしたような出しものはまったく受けず、かえって反感を買い、場はしらけていました。いつ何処で誰に対しても、その芸で多くの人を楽しませてくれるのが本当の芸人だと思いますが、どうもやることなすこと即席なので、まったく深みがなく後に何も残りません。

昔は、かたくなまでに自分の道一筋に打ち込む味わいのある活き活きと生きる「プロの人間」がちゃんといて、口先だけの人間は恥かしくて顔も上げられない。そんな時代もあったはずです。

口先だけで帳尻を合わせる、「インスタント人間」にならぬよう、深みや味わいを持って齢(よわい)を重ね、活き活きと生きる「プロの人間」になりたいものです。