*若桜町の蓮教寺でひと月遅れの日蓮聖人御命日法要『お会式』(日蓮上人にお会いするという事で、お会式)をお勤めした。好天に恵まれ道中山々の紅葉が綺麗だった。
法要後、「晩年の9ヵ年間を身延山(日蓮宗総本山)で過ごされた日蓮聖人は、弘安5年9月中頃自ら”やせやまい”とおっしゃったお腹の病気を癒す為、弟子たちに付き添われ栗鹿毛色の馬にのり、身延山を降りられました。目的は御両親のお墓参り清澄(千葉県)と病を癒す湯治の為、常陸の湯(今の茨城県)に行く事でした。ところが関東にはいり多摩川をわたり御信者の池上宗仲公の屋敷に到着された時いよいよ容態が悪くなられ、自らこの地は自分の臨終の地にふさわしいと心に決められました。
その理由は、かってお釈迦様は鷲霊山で8年間法華経の教えを説かれたのち東北の方角へ山を降りられ、バツダイ川という川を渡ったチュンダという大工さんの家で供養を受け豚肉の入った乳がゆを食べお腹の病が元で亡くなられた。今自分も9カ年間法華経の教えを説いた身延山を東北の方角に降り、多摩川を渡った幕府の建築方面の役職だった池上宗仲公の屋敷にお腹の病に伏せっている。釈迦さまの最後と同じ状況だという事から、仮にもお釈迦様の教えを広めようとした私にとってここはふさわしい地だと覚悟を定められました。
そして、最後の力を振り絞って弟子たちに教えを説かれ、”たとえ、いずくにて死にそうろうとも、心やすく法華経を読みし山なれば、墓をば身延山に建てさせたまえ。日蓮が魂は未来歳(いつまでも)身延の山に住むべくそうろう。日蓮を元とする者はこの山を元として参るべし”と御遺言を残され、10月13日午前8時、波乱万丈の61歳の御生涯を閉じられました」。
などと日蓮聖人の御一代記の一端をお話しして『お会式』法要を終えた。法要中ストーブで暖かくなった本堂にはもちろん招かざる客カメムシさんが・・・。