*高松から帰り今日は、清照寺さんの二月遅れの『お会式法要』(日蓮聖人の御命日法要)をお勤めした。毎年12月の第一日曜日なので、この日をむかえるたびに、今年もいよいよ冬になったなぁ、師走になったなぁと感じる。
*何かと慌ただしい師走をむかえたが、慌ただしいの『慌』とは、心が荒れると書く。
私の場合、バタバタして心がこれ以上荒れないように・・・師走を過ごしたい(*^_^*)
2013年12月01日コメントをどうぞ
2013年11月30日4件のコメント
*平成22年の7月20日に第1回の実行委員会が開催されて以来まだまだ先だと思っていた高松でのイベント『いのりんぴっく』、今日その日をむかえ無事終了した。
朝10時の法要に始まり、様々なイベントがありメインは『美輪明宏」さんの「生きやすい生き方」と題した講演。
わたしの役は『ボーズカフェ』の言いたい放題のボーイさん(^o^)。お客さんに恵まれ、実に楽しいひとときだった(^o^)v
美輪明宏さんのお話は、「幸せって具体的に答えられないもの、手元にずっと置いておけないもの。幸せって充実感です」。「微笑んでいれば世の中うまくいくものです。微笑む微笑まないで、人生は決まります。自分しだいです」。「心はあたたかく、頭は冷たくありましょう」などなど、人生を明るく照らしてくれる言葉の数々だった(^o^)
賑やかにイベントが終了してなによりだった(^o^)v
2013年11月29日コメントをどうぞ
2013年11月28日2件のコメント
*玄関のチャイムが鳴ったので出てみると、いつものエホバのおばあちゃんで、今回は若い女性と一緒だった。
おばあちゃんが、「亡くなった人にまた会えるとおもいますか」と尋ねるので、「え~と、復活するんですよね~」。すると笑顔で、「はい、その通りです~。よく答えて下さいましたね」と。
さらに、「たしか、神が人間を創造されて、生き物に命を与えられた方なので、当然亡くなられた方を生き返らせる力を持っているって事ですよね」というと、さらに嬉しげな笑顔になって小さな聖書を出してきて、「さらにその事は、ここを読んで下さい」と・・・。
いつも思うが、中身(教えの事)はともかくお寺にまで入っ来られるその行動力はたいしたものだと思う。感心ばかりしている場合ではないけど・・・。
話の中で、「復活してもらったら、困る人もいるでしょうにね」と言おうと思ったが、やめておいた・・・。
2013年11月27日コメントをどうぞ
*日蓮宗鳥取県宗務所のある琴浦町の法輪寺さんで開催された『宗務所協議員会』に出席した。県内の宗務所の協議員選挙を受けて今後、4年間協議員を勤め宗務所を補佐する事になった5名の協議員&宗務所の所長さんはじめ役職の方が集まり初会議となった。議長に吉祥寺さんが再任され各役職もきまり無事に会議は終了した。今後4年間、私が足を引っ張らないようにしたい・・・。
*朝、境内の楠木の枝打ちが始まるのを見ながら出かけたが、午後お寺に変えると見事にスッキリとなっていた。
それぞれ樹齢200年、300年を数える銘木なので、大事に守って行きたいと思う。
楠木はスッキリしたが、後は住職の頭・・・。
2013年11月26日コメントをどうぞ
*夕べ、パレット鳥取で開催された『「なりたい自分」になる事で鳥取を活性化しよう!!第8回ナリジブ研究会』に参加した。
今回は、アーユルヴェーダをメインに体と心のバランスを整えるリラクゼーションサロンを営む坂口郁子さんと、こちらも心と体のバランスを整えるヨーガ教室を営む西田麻衣さんのお話を聞いた。心と体のバランス(特に心・・・)が宜しくない私にとって持ってこいのセミナーとなった。
ヨーガの実践では、バランスを取ろうとすると、帰ってバランスを崩し・・・。家に変えると今度は家庭内のバランスが・・・。
ナリジブ、なりたい自分になる事は、なかなか容易ではない・・・。
2013年11月25日コメントをどうぞ
2013年11月24日コメントをどうぞ
*若桜町の蓮教寺で大祥忌(3回忌)の法事をお勤めした。
故人が亡くなられる1か月ほど前に生まれた曾孫さんが本堂を動き回られ、愛嬌をふりまく可愛い姿が何よりの供養だったと思う。
*蓮教寺は536年の歴史がある由緒あるお寺で私は第34世住職(代務住職)になる。34人の住職の中には総本山身延山久遠寺の住職が3人も蓮教寺の歴代住職に名を連ねていて、私がなれば4人目・・・だが・・・そのような事はまったくありえないので、昔はいかに栄えたお寺だったかが伺われる。
蓮教寺での寺子屋が若桜小学校の前身との事で、近年にあっても地域の中で様々な役割を担っていた事も伺われる。だがしかし、お檀家数が少なくお寺の維持管理が困難を極め、先々代住職が遷化(亡くなる)されて以来50年になるが、その間学成寺の住職が代務住職としてお勤めさせて頂いている。
開創当初は、七堂伽藍(しちどうがらん・お堂が七つ)が備わっていたそうだが今や、一堂伽藍。がらんとしている・・・。
そもそも伽藍(がらん)とはお坊さんが集まり修行する場所の意味で、お寺の建物などを伽藍堂と言うようになったが、お寺のお堂は広くて人があまりいない事から、建物の中に人や物が入っていない事を『がらんどう』というようになった。
頭の中も『がらんどう』にならないように気を付けたい・・・。
2013年11月23日1件のコメント
*若桜町の蓮教寺でひと月遅れの日蓮聖人御命日法要『お会式』(日蓮上人にお会いするという事で、お会式)をお勤めした。好天に恵まれ道中山々の紅葉が綺麗だった。
法要後、「晩年の9ヵ年間を身延山(日蓮宗総本山)で過ごされた日蓮聖人は、弘安5年9月中頃自ら”やせやまい”とおっしゃったお腹の病気を癒す為、弟子たちに付き添われ栗鹿毛色の馬にのり、身延山を降りられました。目的は御両親のお墓参り清澄(千葉県)と病を癒す湯治の為、常陸の湯(今の茨城県)に行く事でした。ところが関東にはいり多摩川をわたり御信者の池上宗仲公の屋敷に到着された時いよいよ容態が悪くなられ、自らこの地は自分の臨終の地にふさわしいと心に決められました。
その理由は、かってお釈迦様は鷲霊山で8年間法華経の教えを説かれたのち東北の方角へ山を降りられ、バツダイ川という川を渡ったチュンダという大工さんの家で供養を受け豚肉の入った乳がゆを食べお腹の病が元で亡くなられた。今自分も9カ年間法華経の教えを説いた身延山を東北の方角に降り、多摩川を渡った幕府の建築方面の役職だった池上宗仲公の屋敷にお腹の病に伏せっている。釈迦さまの最後と同じ状況だという事から、仮にもお釈迦様の教えを広めようとした私にとってここはふさわしい地だと覚悟を定められました。
そして、最後の力を振り絞って弟子たちに教えを説かれ、”たとえ、いずくにて死にそうろうとも、心やすく法華経を読みし山なれば、墓をば身延山に建てさせたまえ。日蓮が魂は未来歳(いつまでも)身延の山に住むべくそうろう。日蓮を元とする者はこの山を元として参るべし”と御遺言を残され、10月13日午前8時、波乱万丈の61歳の御生涯を閉じられました」。
などと日蓮聖人の御一代記の一端をお話しして『お会式』法要を終えた。法要中ストーブで暖かくなった本堂にはもちろん招かざる客カメムシさんが・・・。
2013年11月22日2件のコメント